牧 会 通 信
2015.6.7
         No.491

    文責 牧師 長谷川 潤

〜牧師室から〜

『イエスさまを囲んで
       共に生きるA』

 慈しみ深い主の御名を崇めます。
 礼拝式や説教が、退屈だと思われたことはないでしょうか。私は、少なくとも、牧師となってからは一度もありません。なぜかって、私にとって、主日の礼拝式は、緊張の連続だからです。しかし、今から30年近く前の信徒の頃を想い起こしますと、ぶっちゃけ、退屈だと感じたことがありました。説教を聴きながら、居眠りもよくしたものです。「アーメン」で目がさめることもよくありました。そんな私ですから、厳しいことは何も書けないのですが、礼拝式で、特に説教の時間中、退屈さを感じなくなる一つの秘訣をお教えしましょう。
 まず、聖書に対するご自分の姿勢を振り返ってみましょう。聖書が学校の授業の教科書のような本になっていないでしょうか?もちろん、「聖書テキスト」という言い方があり、説教は聖書に基づいて語られますから、教科書という面が全くないとは言えないでしょう。しかし、聖書は、救いの真理を勉強するための教科書ではありません。それで、もし、礼拝式を、聖書を通じて救いの真理を勉強する場ととらえるているならば、礼拝式が退屈になって当然です。朝の礼拝式もですが、特に昼食後の午後の礼拝式は、聖書の勉強には全く向きません。血液がおなかに集中しています。睡魔に襲われるだけです。
 それで、退屈さ解消のための一つの具体的な提案です。イエスさまは聖書を手段として今の自分に語りかけて下さると、とらえることです。イエスさまが語りかけて下さるのが聖書という本であるということです。もちろん、イエスさまが直接語りかけて下さるのでなく、イエスさまが天の王座におられる今は、牧師や長老方・執事方の声を用いてです。そうとらえるならば、聖書に対する姿勢も変わって来ますし、何よりも、毎週主日毎の礼拝式が楽しくなって来るでしょう。なぜって、キリスト者にとって、イエスさまから個人的に語りかけられることぐらい、うれしいことは他にないからです。神の民として礼拝するのですが、礼拝式の中で、特に聖書朗読と説教・奨励の時、イエスさまは私たちひとりびとりに語りかけて下さるのです。何と素敵なことでしょうか。
 今まで私は、大会創立40周年記念宣言の「聖書について」を余り読んでいなかったのですが、今回改めて読む機会を与えられて、ハッとさせられました。「聖書について」は、聖書の実際を教えてくれている!と。『ウェストミンスター信仰告白』の第1章「聖書について」の各節に付加する形で40周年記念宣言「聖書について」は叙述されています。その第2節の一文をご紹介しましょう。
「今の生ける言 
 従って、旧新約聖書はそこにおいて神が、み子イエス・キリストを通し、みたまによって、私たちに今語っておられる、神の生けるみ言葉であり、信仰と生活の唯一の誤りなき規準である」(波線は牧師)。
Soli Deo Gloria!!