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体は服
服を着ると、寒さや風から身を守ることが出来る。
これは、すなわち、「服に遮られて外側の気温や風を体感できなくなった」とも言える。
実は、神から体を着せられている時は、かなり感じ取れる感覚を制限されていて、あなたは、体を通して適度に少なくなった感覚を受け取って生きている状態なのだ。
地球上の生き物たちは、生き抜くための服(体)をちゃんと神から与えられて生まれてくるから、与えられた体のまま裸で過ごしている。
なのに、人間だけ、なぜか、違う。
サルから見ると人間は「服(体)の上に服を着ている」という珍しい生き物なのだ。
人間の体は、体毛が少なくなって寒さや紫外線などに弱くなっていき、服や靴なしでは健康を保てない弱々しい皮膚になっていき、「環境に適応する」どころか、むしろ、「環境に適応できない」体へと進化していっている。
これは、目的が「環境に適応する」以外にあるからなのだ。
チョウチョは、サナギからかえると、その時点で、空を飛ぶのに最適な体形になっている。
もちろん、人間にとって最適な体形も、神は、知っている。
でも、努力なしでは、それを、与えない。
食べすぎや運動不足で体形が崩れたりするのは、神が定めた「体の管理を怠ったことによるペナルティー」なのだ。
本来、「太りすぎて活動に支障が出る」なんてのは、ありえない話。
ラクダみたいに「自分に害を及ぼさない程度に脂肪を蓄える」というのが正解であるはずなのだ。
まあ、でも、あれだ、本当は「目の前にあるもの全てを食べられる」という設定にさえすれば「脂肪を蓄える」必要性はないのだから、これも、神の遊び心による産物で、より高度な課題を与えられている人間だからこそ、より体を複雑なシステムにしてある。
体は、教育用の拘束着。
そして、「服(体)は死ぬまで脱げない」ということなのだ。
死んだら、体を切り替える。
餓死、水死、出血多量、これら「死ぬ条件」ですらも神が定めたものなのだ。
冬眠中のクマは、何ヶ月も飲まず食わずで生きている。
チョウチョなんかは、サナギの時に、それまでの自分の体を溶かして原形がない状態にまでなっているのに、それでも、生きているのだぞ。
そんなグシャグシャの状態でも生きているのに、人間に踏まれてグシャグシャになると、いとも簡単に死んでしまう。
何だか、おかしいと思いませんか?
実は、生物は「空気と水と食料で生きている」訳ではなく、もっと根本的な生命エネルギーを元にして生きているのだ。
胃腸で食べ物を消化吸収して得られるエネルギー、実は、これ、「食べて消化された分だけ生命エネルギーを与える」という1つの設定になっているだけの話で、設定した側である神から見れば「こうこうこういう条件を満たせば、これだけの生命エネルギーを与える」という設定にしてあるだけの話なのだ。
条件を満たしているから、冬眠中のクマとサナギ状態のチョウチョは生命エネルギーを与え続けられて生きている。
そして、生きる条件を満たせなくなった時、すなわち、「こうこうこういう状態になったら死ぬ」という条件にひっかかってしまった生物、人間に踏まれてグシャグシャになってしまったチョウチョの幼虫は、死んでしまうのだ。
「大きな体を維持するには多くのエサを食べる必要がある」というのも1つの設定。
くどいようだけど、冬眠中の「人間よりも体が大きい」クマであっても、何ヶ月も飲まず食わずで生きているのだぞ。
エサがなくても生命エネルギーは得られるのだ。
ただ、普通の状態の時には「エサを食べないと生命エネルギーを得られない」「食べ続けないと餓死する」という設定になっているだけ。
カルシウムやビタミンなどが不足すると病気になることがあるけど、これは、基本的な生命エネルギーとは別の話で、「健康管理」という名目のために神が設けた決め事なのだ。
本来は、服的な役割を果たしている体がなくても、生きられる。
よ〜く、考えてみて下さい。
寝ている時に見る夢の中では、目と耳と口がなくても、見たり聞いたりしゃべったり出来ている。
これも、ヒント。
遺伝子だとか、走馬灯だとか、夢だとか、サナギだとか、冬眠だとか、みんな、ヒントなのだ。
粋な作者である神のはからいで、この世は、ヒントをつなぎ合わせると衝撃的な事実へと辿り着けるように作ってある。
さて、夢から目を覚まして起きると、制限装置である目と耳と口を通してコミュニケーションする通常の形へと戻る。
「夢」というヒントから「目と耳と口がなくてもコミュニケーションできる」ということが分かった。
実は、自分という人間は、自分の思考を神へと渡し、神が自分の口を動かして音声を発信して、それを、神が他人の耳を経由して整えてから他人の脳へと渡している、ということになる。
もちろん、神々の世界では、人間みたいに面倒くさいシステムにはなっておらず「思ったことがすぐ相手に伝わる」という会話手段が使われているのだ。
今の人間は「自転車に補助輪(体)を付けられた状態で過ごしている」ということ。
補助輪が外されれば、もっと速く快適に過ごすことが出来るようになるのだ。

私の文章は、ダイヤモンドの原石。
見る人によって輝きを変え、研磨できる審美眼を持っている人が見ると、キラキラ輝く完成品のダイヤモンドへと変貌する。
宝石が発掘されることがある川辺で「これは違う、これは違う」と石コロを川に投げ捨てている内に、その動作がクセになってしまい、ダイヤモンドの原石を手にしても「これも違う」と投げ捨ててしまうことがある。
私の文章は、石コロ、ではない。
ダイヤモンド、なのだ。
プロのカウンセラーや心理学者、さらに、各分野における世界トップクラスの協力者によって完成へと到った、まさに、全世界をも凌駕できる、宇宙のどこに出しても恥ずかしくない逸品。
私自身は、たいしたことない人間だ。
ただし、文字通り、自分の魂に刻み込まれていた運命を浮かび上がらせ、自分が神に選ばれし人間であることを知り、今までの人生の全てをかけて命がけで魂を込めて書き上げた文章は、宇宙全体をも明るく照らし出すキラキラ輝くダイヤモンドなのだ。
実は、私は、普通の脳と体を持ち合わせていない変人で、社会的に落ちこぼれていて、世間一般から見たら負け組に相当する人間だ。
神が私に「弱者の気持ちを思い知らせるため」に普通の脳と体を与えられずに生まれてきた人間であるため、私は、今まで、みじめな人生を歩んできた。
私の人生を振り返ってみても、普通の人生を歩むだけの能力を与えられていないから、当たり前のように落ちこぼれた人生を歩むことになった。
だから、私には「あの時ああしていればエリートコースを歩めていたのに」というチャンスもなく、順調に落ちこぼれていった人間なのだ。
その立場から、文章を発信することを神から期待されている人間。
だから、今、一生懸命に書いている。
大本教の教祖である出口ナオのケースも、社会の底辺へと導かれて、そこからメッセージを発する人生となっていた。
なぜなら、身をもって社会の問題部分を経験してから解決方法を模索する人生となっているからなのだ。
文明が発達した現代社会で言うと「物質的には恵まれているのに心が飢えている」という部分が重要かもしれない。
私は、さらに、普通の脳と普通の体を与えられずに生まれてきた人間。
だからこそ、生きているだけで厳しい修行をしたことになり、人間社会と距離をとって育ったことで童心のまま大人となり、大人の常識に縛られない子供の自由な発想力を保ちつつ大人の文章力と知識を兼ね備えた存在となり、まさに、偶然が偶然を呼んで「奇跡の書」は出来上がった。
天地創造の神が、私の魂に答え(運命)を書き込んでこの世に送り出した人間であるため、私が導き出した答えは、宇宙を貫く真理を見事に書き現す。
過大誇張や妄想ではなく、私は、ただ、事実を書いているだけなのだ。
釈迦が、裕福な王族の家庭に生まれ、その後、身を削る厳しい修行をして、両方を経験したことによって「過度な贅沢に問題があって過度な節制にも問題がある」という「中道」の道へと辿り着いたように、身をもって体験したからこそ辿り着ける真実というものがある。
釈迦の背後にも、ひしひしと運命が感じられる。
釈迦、イエス・キリスト、両者ともに、自分の運命を見事に描き出して、人々に神の教えを伝えた、偉大なる御方なのだ。
出口ナオのケースもよく似ているけど、ちょっと違う。
このタイプの啓示を完成させるためには人間以上の存在からのメッセージが不可欠だったため、ナオの体を霊媒として、発狂したみたいに出口ナオの口を借りて上の存在からのメッセージを発信する形となった。
そして、その後、自動的に手を動かしてメッセージを伝える形へと変更されていった。
天地創造の神からのメッセージは、魂そのものに答えを書き込むタイプであるから、「自動書記」現象である出口ナオのケースは神「直流」という感じになると思いますが、素晴らしい内容であるため、その流れをくむ日月神示という書物を紹介しておきます。
日月神示とは、画家であった岡本天明(1897〜1963)が、昭和19年から約16年間にわたり、自動書記で書いたという神(直流?)からのお告げ。
全部で三十二巻あり、ひふみ神示とも呼ばれています。
この神示は、天理、金光、黒住、大本の後を継ぐ形で、神の百年にもわたる啓示の最後の仕上げにあたります。

〜〜〜以下、引用〜〜〜

真の信仰に入ると宗教にとらわれなくなるぞ。
真の信仰に入らねば、真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのぢゃ。
今に岩戸開いてあきらかになったら宗教いらんぞ、政治いらんぞ。
今までの日本の宗教は日本だけの宗教、このたびは世界のもとの三千世界の大道ぞ、教えでないぞ。
宗教によるもののみ天国に行くと考えるもの、皆悪のけんぞくばかり、迷うなよ、迷うのは欲からぢゃ。
高い心境へ入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。
なすこと、心に浮かぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。

右の頬を打たれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元ぢゃと申しているが、その心根をよく洗って見つめよ。
それは無抵抗ではないぞ。
打たれるようなものを心の中に持っているから打たれるのぞ。
まことに居れば相手が手を振り上げて打つことは出来ん。
よく聞き分けて下されよ。
笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが。
これが無抵抗ぞ、世界一家天下泰平ぢゃ。
左の頬を出すおろかさをやめて下されよ。

信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。
奇跡的に治るとみるのは間違い、迷信ぞ。
時間もいり手間もいる。物も金もいる。大き努力いるのであるぞ。取り違い多いのう。
この神のもとへ来て信心さえしていたらよいことある様に思うているが、大間違いざぞ。
この方のもとへ参りて先ず借金取りに借金払いして下されよ。
苦しいこと出来てくるのが御神得ぞ。
この方のもとへ来て悪くなったと言う人民遠慮いらん。帰りてくれよ。
そんな軽い信心は信心ではないぞ。
結構な苦しみが判らん臣民一人も要らんのぞ。しっかりと褌締めてついて御座れよ。
この方悪神とも見えると申してあろうがな。

四ツ足を食ってはならん。共食いとなるぞ。
草木から動物生まれると申してあろう。
臣民の食べ物は五穀野菜の類いであるぞ。
獣の食い物食う時には、一度神に献げてからにせよ。
神から頂けよ、そうすれば神の食べ物となって何食べても大丈夫になるのぞ。
神に献げきらぬと獣になるぞ。

苦労致さねば誠判らんなり。
人民というものは苦に弱いから、中々におかげのやり様ないぞよ。
欲だすから、心くもるから、我よしになるから中々に改心出来んなり、難しいぞよ、欲さっぱり捨てて下されよ、欲でると判らなくなるぞ。
神示がハラに入って血になると、何が起こって来ても結構であるが、始めのうちは、ちょっとのことで迷いの雲が出て悪の虜となって苦しむぞ、悪はないのであるが、無い悪を人民の心から生むのざぞ。
悪の虜となって苦しむが見えているから、苦も結構なれど要らん苦は要らんぞ。神示よく読んで苦を楽とせよ。

金好きなら金を拝んでもよいのじゃ。
区別と順序さえ心得ておれば、何様を拝んでもよいのぞ。
清くて富むのがまことぢゃ。
地も富まねばならんのぢゃと申してあろうが。

今までの心スッキリと捨てて、生まれ赤子となりて下されと申してあろが。
早よ改心せねば間に合わん。残念が出来るぞ。
生まれ赤子の心で神示読めよ。神示頂けよ。

神の規則は恐いぞ、隠しだては出来んぞ、何もかも帳面に記してあるのざぞ。
神の国に借金ある臣民はどんな偉い人でも、それだけに苦しむぞ、家は家の、国は国の借金済ましが始まっているのぞ。
済ましたら気楽な世となるのぞ、世界の大晦日ぞ、晦日は闇ときまっているであろうがな。
借金返す時つらいなれど、返した後の晴れた気持ち良いであろうが、昔からの借金ざから、素直に苦しみこらえて神の申すこと、さすことに従って、日本は日本のやりかたに返してくれよ。

神世のひみつとして知らしてあるが、いよいよとなりたら地震、雷ばかりではないぞ。
臣民アフンとして、これは何とした事ぞと、口あいたままどうすることも出来んことになるのぞ。 四つん這いになりて着るものもなく、獣となりて、這いまわる人と、空飛ぶような人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ。
獣は獣の性来いよいよだすのぞ。
火と水の災難がどんなに恐ろしいか、今度は大なり小なり知らさなならんことになりたぞ。
一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ。
それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾い上げてミロクの世の臣民とするのぞ。
どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな。
高い所から水流れるように時に従いて居れよ。
いざという時には神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ。
人間の戦や獣のケンカ位では何も出来んぞ。
くどう気つけておくぞ、何よりも改心が第一ぞ。

人民と申すものは生命が短いから、気が短いから、仕組み少しでも遅れると、この神は駄目ぢゃと、予言が違ったではないかと申すなれど、二度とない大立て替えであるから、少しくらいの遅し早しはあるぞ。
それも皆人民1人でも多く助けたい神の心からぢゃ。
遅れても文句申すが早くなってもまた文句を申すぞ。
わからんと申すものは恐ろしいものであるぞ。

富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと言う心、我れ善しぞ。
何処に居ても救う者は救うと申してあろうが。
悪を待つキは悪魔のキざぞ。
この先どうしたらよいかということは、世界中、金のわらじで捜しても、ここより他わからんのざから、改心して訪ねて御座れ、手取りて善き方にまわしてやるぞ。

この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあれなれど、それは大難を小難にし、またメグリが一時に出て来て、その借金済ましをさせられているのぢゃ。
借りた物は返さねばならん道理ぢゃ。
メグリと申すのは、自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。
メグリは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。

自分の中にあるから近寄ってくるのであるぞ。
嫌なこと起こってくるのは、嫌なことが自分の中にあるからぢゃ。
長い目で見て良くしようとするのが神の心ぞ。
目の前のおかげではなく永遠の立場から良くなるおかげがマコトのおかげ。
天国を動かす力は地獄であり、光明を動かす力は暗黒である。
地獄は天国あるが故であり、暗は光明あるが故である。
因が果にうつり、呼が吸となりゆく道理において歓喜は更に歓喜を生ず。
その一方が反抗すればするだけ他方が活動し。また強力に制しようとする。
この道は因縁なくては判らん難しい道であれど、この道貫かねば世界は一平にならんのぢゃ。
縁ある人は勇んで行けるのぢゃ。

そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。
神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。
そなたが有限から無限になるぞ。
神人となるのぢゃ。永遠の自分になるのであるぞ。
他のために行ぜよ。神は無理申さん。
始めは子のためでもよい。親のためでもよい。自分以外の者のために、先ず行ぜよ。奉仕せよ。
うれしうれしの光さしそめるぞ。はじめの世界ひらけるぞ。

神に目を向ければ神がうつり、神に耳向ければ神がきこえ、神に心向ければ心にうつる、掃除の程度によりて神のうつりかた違うぞ。掃除出来た方から神の姿うつるぞ、それだけにうつるぞ。

マコトでもって洗濯すれば霊化される。
半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん。
今のやり方ではどうにもならなくなるぞ。
今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ。
灰になる肉体であってはならん。
原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ。
今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。
岩戸ひらきとはこのことであるぞ。
少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ。

神の世と申すのは、今の臣民の思うているような世ではないぞ。金は要らぬのざぞ。
お土からあがりたものが光りて来るのざぞ。
衣類、食べ物、家倉まで変わるのざぞ。
草木も喜ぶ政治と申してあろうがな。
誰でもそれぞれに先の判るようになるのぞ。
お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶のようになるのぞ。
悪はどこにも隠れること出来ん様になるのぞ。
博打、しょうぎは無く致すぞ。
雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきように吹かしてやるぞ、神をたたえる声が天地に満ち満ちて、うれしうれしの世となるのざぞ。

〜〜〜以上、引用終了〜〜〜

ここで、一言、書き添えておく。
文章中に登場する私は、かなりビッグマウスで途方もない発言も多々しているけど、これは、私なりに読者に楽しんでもらおうと努力した結果だと思ってもらいたい。
お笑い芸人がテレビ用に作るキャラみたいな感じで、もちろん、実際には、こんな人間ではない。
私自身「お笑い」に助けられたことが何度もあり、今の時代、ブームとなっているのはココに重大な意味が隠されているからだと思うし、実際、庶民の心のオアシス的な存在になっていて苦しみから解放されて癒された人も多いと思うし、だからこそ、私も、お笑いのセンスを磨こうと日々研究中なのだ。
所々に「のだぞ。」とか「なんと、」とか「ああ、」という言葉が出てくるのは、読者をバカにして書いている訳じゃなく、私なりに読者を一生懸命に笑わせようとしているからだと思って下さい(汗)
では、一言断ったところで、思いっきり遠慮なく書かせていただく。
キリスト教のイエス・キリスト、仏教の釈迦、イスラム教のムハンマド、「神の姿を書き現す」という文章力においては世界三大宗教の創始者である3人よりも私の方が上だ。
そして、私の理論は、相対性理論を確立して20世紀最大の天才科学者と称されたアインシュタインと対等以上と言ってもいいぐらい高レベルの完成度なのだ。
釈迦は、人間側からのアプローチで悟りへと到った偉大な御方であるけど、その思想に「神の視点」を加えると、もっと完成度が高くなる。
一度、神の視点から釈迦の教えを読み直してみて下さい。
そうすれば、新たな発見がぞくぞくと生まれ出てくるはずです。
「神の存在なし」の解説では、必ず、どこかにグダグダした解説部分が出てきてしまい、「神の存在あり」で解説すると、その部分がクリアになる。
私の文章はマスターキー。
じっくり読んで「神の視点」を身に付けた読者は、全ての預言書を、より分かりやすく通読できるようになったはずだ。
神の教えの伝道者であるイエス・キリスト自身が「わたしが来たのは(過去の)律法や預言者を廃するためだ、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである」と言っていたように、私は、神の視点で、今までの預言者たちによって形成された神の言葉の未完部分を補って、さらに神の教えを完成の高みへと昇進させることが出来る存在なのだ。
あっさり書いてるけど、実は、これ、もの凄いことなのだぞ。
神が封印して隠していた内容は、神にしか開封できない。
間違いなく、私の文章には、神が宿っている。
こんなことは人類史上「数度」しかなく、さらに、ここまで神の姿を明確に書き現した書物という観点では、人類史上「初」の快挙なのだ。

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