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偉大なる神 |
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あなたには、もう、偉大なる神の姿が、はっきりと見えてきたはず。 神々の世界では自分の意志で「自分がなりたい容姿」へと自由に変わることが出来て、食べ放題、作り放題、遊び放題、何でもやり放題で、永遠の命と若さと美貌、無限の記憶力と処理能力、無償の愛、抜群のデザインセンスを持つ者同士がアイデアを出し合って形成している、魂の卒業試験をクリアした者だけが住むことを許された、まさに、そこは、「楽園」と呼ぶにふさわしい極上の世界なのだ。 今、あなたが住んでいる世界で、周りを見渡してもたいした人間がいないのは「そういうレベルの魂が生まれてくる世界」だからなのであって、この世界で学ぶべきことがない人は生まれてくる必要がないから、みんな何かしらの課題を持って生まれてきている。 「死ぬまで」が修行期間であり、「終末まで」がテスト期間であり、いくつかのテストを乗り越えて神から1人前(1神前)の魂になったと認められたら、あなたは神々の世界の住人(住神)となれるはずなのだ。 自分の人生をふり返れば、自分がどのタイプの「悪魔の誘惑」に弱くて、どのポイントを直せばいいのかが分かったと思うし、それは、あなたの魂に足りない部分を改善できるように神が上手に運命を組み立ててくれたから気付ける有難い経験なのだから、神の期待に応えるために、死ぬまでに何とかして、今からすぐにでも自分の魂の「悪いクセ」を直し始めなければいけない。 魂レベルの改善は1日や2日で直るほど簡単ではないから、毎日毎日、自分の過去を反省して、少しずつでもいいから前進していく必要があるのだ。 悪いことをすると心がざわめき出すのは、現世で「親にしつけられたから」「先生に叱られたから」という理由もあるけど、それ以前に、「前世までにおいて自分が信じ続けていた神の教えに背いている」という強い罪悪感が心の奥底から湧き出ているからなのだ。 神の教えに従って生きたことがある人には、魂に「良いクセ」が付いている。 この世に生まれ出てから初めて読んだ書物であるはずなのに、聖書や仏典など、神の教えが記述されている聖典を読んで、すぐになつかしさを感じる人は「前世までで熱心に読んでいた人」。 だから、久しぶりに会った恋人みたいに心がときめいて、読み進めていくと心が落ち着いてくるのだ。 信仰心が篤かった人は、読んだらすぐに神の御心に立ち返ることができる。 できないないならば、今から、頑張って自分で築き上げていけばいい。 やるか、やらないか、だけの話。 やらない人間は、いつまでたっても天国へと辿り着けない。 まず、聖典を子供の頃からずっと読み続けて、ずっと神の存在を信じ続けて神と共に歩んで死んでいく時代を経験して、それから、神の存在が隠された時代において、聖典なしでもちゃんと神の教えを守れるかどうかを試されることになる。 神の存在を隠すために、そのために「ダーウィンの進化論」は必要だった。 間違った理論であっても、重要な役割を果たしていることがある。 「間違い」から「正解」へと引っ繰り返す時に驚きと感動が生まれ、人々の心に印象強く残されることになり、より「正解」を際立たせてくれることにもなるのだ。 「必要ないように見えるけど将来を見据えると必要だった経験」というのも、ある。 苦しみが、死を乗り越えた先の自分に、良い結果をもたらすことがある。 自分自身が苦しみを体験したことによって、苦しんでいる人の気持ちを思いやれる優しい魂へと成長できる、ということなのだ。 もちろん、十分に苦しんでいる人の気持ちを思いやれるようになったならば、もう、苦しみを経験する必要はない。 死後に、そのことを考慮した上で、運命の組み立てが行われているのだ。 さて、これだけ科学が発達した現在、私がここまで一生懸命に解説して、やっと、なんとか理解できるようになるレベルの話を、「約2000年も昔に」当たり前のように語っていた人物がいる。 救世主伝説、十字架、西暦、今もなお、現代人の思想に多大な影響を与え続けている存在であるイエス・キリスト、人類史上最大の輝く伝説となっている御方の言葉を、ご紹介いたしましょう。 〜〜〜以下、引用〜〜〜 ■ マタイによる福音書 第5章 イエスは群集を見て、山に登り、おすわりになると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。 心の貧しい人々は幸いである。天国は彼らのものである。 悲しむ人々は幸いである。彼らはなぐさめられる。 柔和な人々は幸いである。彼らは地を受け継ぐ。 義に飢えかわいている人々は幸いである。彼らは満たされる。 あわれみ深い人々は幸いである。彼らはあわれみを受ける。 心の清い人々は幸いである。彼らは神を見る。 平和をつくり出す人々は幸いである。彼らは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は幸いである。天国は彼らのものである。 わたしのためにののしられたり、迫害されたり、身に覚えのないことで悪口雑言を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの受ける報いは大きい。 あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 あなたがたは地の塩である。もし塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に向かって投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前で輝やかせ、そして、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 わたしが来たのは律法や預言者を廃するためだ、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである。 はっきり言っておく。天地が消えうせるまで、律法の一点一画もすたることはなく、全てが成就する。 だから、これらの最も小さい戒めを一つでも破り、そうするようにと人々に教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを行い、そうするようにと教える者は、天国で大いなる者と呼ばれる。 はっきり言っておく。あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天国に入ることができない。 昔の人々に「殺すな。人を殺した者は裁きを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いている。 しかし、わたしは言っておく。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けなければならない。兄弟に向かって「能なし」と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、「ばか者」と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。 だから、祭壇に供え物をささげようとしている時、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰ってきて、供え物をささげなさい。 あなたを訴える者と一緒に道を行く場合、その途中で早く仲直りしなさい。そうしないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、そして、あなたは牢に投げ込まれるに違いない。はっきり言っておく。あなたは最後の1コドラントを支払うまでは、そこから出ることはできない。 「姦淫するな」とあなたがたは聞いている。しかし、わたしは言っておく。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれるよりはましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。 また「妻を出す者は離縁状を渡せ」と言われている。しかしわたしは言っておく。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。 また昔の人々に「いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果たせ」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかしわたしは言っておく。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座である。また地をさして誓うな。そこは神の足台である。またエルサレムをさして誓うな。それは「大王の都」である。また自分の頭をさして誓うな。あなたは一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからである。 だから、あなたがたは「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上に出ることは、悪から来るのである。 あなたがたも聞いているとおり「目には目を、歯には歯を」と言われている。 しかしわたしは言っておく。悪い者に手向かってはならない。もし、誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい。 求めようとする者に与え、借りようとする者を断ってはならない。 あなたがたも聞いているとおり「隣人を愛し、敵を憎め」と言われている。 しかし、わたしは言っておく。 敵を愛し、迫害する者のために祈れ。天におられるあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださるからである。自分を愛してくれる者を愛したところで、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつしたからところで、どんな優れたことをしたことになろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 ■ マタイによる福音書 第6章 自分の義を見てもらおうとして、人前で行わないように注意しなさい。さもないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人からほめられようと会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはならない。はっきり言っておく。彼らはその報いを受けてしまっている。あなたが施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。あなたのする施しが隠れている。すると、隠れたことを見ておられるあなたがたの父は、報いてくださるであろう。 祈るときにも、偽善者たちのようであってはならない。彼らは人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けてしまっている。だから、あなたが祈るときは、自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたがたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたがたの父は、報いてくださるであろう。また、祈るとき、異邦人のように、くどくど祈ってはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父なる神は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 だから、こう祈りなさい。 「天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が天におけるように地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの負い目をお許しください。わたしたちも自分に負い目のある人を許しましたように。わたしたちを試みに会わせず、悪からお救いください」 もし、人の過ちを許すなら、あなたがたの天の父も、あなたがたを許してくださるであろう。しかし、人を許さないなら、あなたがたの父も、あなたがたの過ちを許してくださらないであろう。 また、断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けてしまっている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。断食していることが人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が、報いてくださるだろう。 あなたがたは、自分のために地上に宝をたくわえてはならない。そこでは虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が押し入って盗み出したりする。宝は天にたくわえなさい。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が押し入って盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。 目は体のともし火である。目が澄んでいれば全身が明るい。にごっていれば全身が暗い。だから、あなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。 だれも2人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は着物よりも大切ではないか。空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。それなのに、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも優れたものではないか。あなたがたのうち、だれが思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、着物のことで思い悩むのか。野の花がどうして育つのか、考えてみなさい。働きもせず、つむぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのだから、あなたがたには、それ以上に良くしてくださるはずだ。 信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか、と言って思い悩むな。これらはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存知である。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添え与えられるであろう。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。 ■ マタイによる福音書 第7章 人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りを与えられるであろう。あなたは兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって「あなたの目のおがくずを取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取り除くことができる。聖なるものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つかり、門をたたく者は開かれる。あなたがたのだれが、パンをほしがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚をほしがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださるに違いない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法であり預言者である。 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は大きく、その道は広くて、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと小さく、その道はせまいことか。それを見いだす者は少ない。 にせ預言者を警戒しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたの所に来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができる。いばらからぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはなく、また、悪い木が良い実をならせることもできない。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見分ける。 わたしに向かって「主よ、主よ」という者が、みな天国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者だけが入るのである。その日には、大勢の者がわたしに向かって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」。 だから、わたしのこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができる。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者はみな、砂の上に家を建てたおろかな人に比べることができる。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方がひどかった。 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。 〜〜〜以上、引用終了〜〜〜 新約聖書において、上記の「山上の垂訓」と呼ばれている有名な箇所は、弟子である2人が書いた「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」の両方に登場するから、イエス・キリスト自身が語った言葉であるのは、間違いない。 何よりも、この発言は、神から特別な啓示を受け取った者にしか出来ない発言なのだ。 西暦は、イエス・キリストの誕生日を起点として始まっている。 2000年以上も前に生まれたイエス・キリストが、このような発言を残して死んでいった事実が、驚異的なのだ。 世界人口の約3分の1である20億人が信仰しているキリスト教。 聖書の中で、今もなお、まるで生きているかのように語りかけ続けるイエス・キリストは、まさに「神の一人息子」と言ってもいいぐらいの偉大なる御方なのだ。 ただ、イエス・キリストが男であったためか、女性に対する配慮に少し欠けている気がする。 男性と違って、女性には、女性特有の守るべきものが多く存在する。 男性に対して「下着をくれ」と言うのと、女性に対して「下着をくれ」と言うのでは、意味合いが全く違ってくる。 男性が女性に言ったら、そりゃ、ただの、変態だ。 そんな要求に応えてあげる必要性は、全くない。 イエス・キリストの教えにも、釈迦の教えにも「女性の視点」が足りない。 もっと、女性を気遣う紳士的な発言が、必要だったのだ。 女性特有のかわいらしさや優しさなど、女性の良い所を引き出してあげるために、男はジェントルマンであるべきなのだ。 生きている間に、何とかして、自分がジェントルマンであることに心地よさを感じるようになっておかなければいけない。 そうすれば、自然と、沈む船から女子供を優先して救命ボートに乗せてあげられる存在になれる。 これらは、相手の気持ちを思いやれる優しい魂になったからこそ、出来ることなのだ。 人の不幸を、喜ぶ存在になってはいけない。 今のあなたが他の「人」に対して抱く感情は、そのまま、あなたが神となった時に、他の「神」に対して抱く感情となる。 そう考えれば、いけないことだと、はっきりと認識できるようになるはずだ。 男性は、特に、性犯罪に関する「悪魔の誘惑」に弱くて、誰も見ていない状況で誰にも罰せられない地位にいたとしたら私だってちゃんとルールを守れる自信がなく、美しい女性を見るとなんとしても手に入れたくなるし、性欲が勝ると理性がふっ飛んでルールを破りたくなってしまう。 でも、これは、なんとしても、こらえなければいけないことなのだ。 なんとかして、自分で自分を抑制できるだけの言葉を見つけ出して、理性を深く魂に刻み付けて、心の中に強力な防衛線を作り上げておかなければいけない。 旧約聖書に登場するダビデも、神に仕える身であるのに、ココでつまずいてしまった。 だから、イエス・キリストは、厳しく言って戒めたのだ。 将来の自分のために、心の中における天使と悪魔の戦いで、天使を勝利させておくことが非常に重要なこと。 聖書に「下着を取ろうとする者には上着をも与えなさい」と書いてあるからといって、女性に対して「下着をくれ」と強要しているようではダメなのだ。 聖なる言葉を、ねじ曲げて解釈してはいけない。 聖典は「変態育成本」ではない。 読み手が解釈を間違っているのなら「誰もが納得できる言葉」を用いて間違いに気付かせてあげる必要がある。 偽善がなんでダメかというと、偽善をやったことによって自分の魂にどんなクセが付くのかを考えてみればいい。 最初は偽善でボランティアを始めたとしても、このことに気付いたのならば、途中から心のこもった「本物の善」へと切り替えていかなければいけない。 神は、あなたの心を見ている。 「心の中でどう思っているか」が重要で、「思い」があなたの周りの人々や環境に多大な影響を及ぼすのは、あなたの思考を受け取った神が誘導して、周りにいる人々が発する言葉や行動や環境を巧みに変更しているからなのだ。 悪事を好んでやってしまう人間に対しては「心から後悔させてあげる」必要がある。 「悪い者に手向かってはいけない」という言葉を「悪い者を野放しにしておけばいい」という意味に捉えてはいけない。 間違ったことをした時には、叱ってあげるのが愛なのだ。 |