語り部 水野光代女史の空襲の想い出
7月9日の姉と兄と私 そして父は? 語り部 水野光代 田植えがすんで、いくらもたっていない田んぼは、水がいっぱいでした。 飛行機が飛んでくると、その中を小学5年の姉、小学3年の兄、小学校入学前の私の、子供ばかり3人でにげまわっていたのです。 遠くに岐阜の街がまっ赤に燃えさかっており、とても明るかったのを覚えております。 まわりに人はいません。 あんなに大勢の人々といっしょだったのに、、みんなどこえ逃げてしまったのか? 「火が燃え広がると逃げるところがなくなるので、やっぱり堤防がいいゾ。」 「となりの人も長良川の堤防へにげやぁと言ったに」 と言いながらも時々飛んでくる飛行機の群れにおびえてにげまわる間に、もう方角も分からず、つかれはてていました。 人々と、はぐれてしまったのです。 岐阜の街が空襲でそのほとんどが燃えてしまった昭和20年7月9日の夜のことです。 その頃、市電の通りから1本入った岐阜市真砂町という所に住んでいたのですが、勤めがある父だけ真砂町の家に残し、母と子供たち5人は、母の実家を頼って安八郡へ疎開しておりました。 岐阜空襲の日、小3の兄の教材を取りに、小5の姉と私が疎開先から真砂町の家へバスで戻って来ました。 その夜のこと、「空襲警報」のサイレンが鳴り、いつものように防空ごうに入ろうとしたとき、外が騒がしくなりました。出て見ると、周囲が何かただならない様子です。火事も起こっているようです。大勢の人が走り回り、さけび声も聞こえます。となりの家の人が 「今夜はいつもとちがうようだよ。防空ごうでは心もとない感じやで、逃げた方がいいよ。」 とさそいに来てくれました。 半鐘の音も聞こえ、何か燃えるにおいもします。 父と私たち3人のこどもは防空頭巾をかぶり家を出ました。 だれ言うともなく 「家並みのない方へ」 「長良川の堤防へ行こう」 といそぎました。 電車通りの広い道へ出る前に、突然 「男は家を守れっ!!」とどなる声は、私たちを連れた父に対して怒っているとなり組の組長さんのようです。 「子供ばかりで心配やで、そこまで見送らせて」 と言う父に「だめだっ!!」 大きな声でした。 「家へ爆弾が落ちたら、火を消す役目があるやろう」 とどなります。私は父にしがみついて 「父ちゃんと一緒に居る」 と泣きました。 が、 父は小5の姉に 「3人はしっかりてをつないでにげなさい」 と大声で泣く私たちに背を向けて家の方へ戻っていきました。 広い電車通りは人であふれておりました。 大きな荷物を持ってむこうからにげてくる人もあります。「川の方へ」 とか 「こっちは火が出てだめだゾ」 とかさけぶ声。 私たちはしっかり、お互いの手をにぎって、人におされて走りました。 途中、たくさんの飛行機や飛行機からバラバラと爆弾が落ちてくるのを目にしながら、ひたすら走りました。 日本の兵隊さんは一人も見なかったような気がします。 ただにげまわる人、人、それをかきわけ、ぶつかり、私たちも夢中で逃げまわりました。 気が付くと、いつの間にか3人だけが田んぼの水の中に居たのです。 そしてあんなに次々飛んで来ていた飛行機も来なくなり、岐阜の街を焼く炎はまっ赤でした。 姉は、だまってそれを見ていました。 一晩で、あの広い岐阜の街が燃えてしまいました。 父が消火のためと言われて引き返した真砂町の家も燃えてしまったのです。 たくさんの人の命も失われたことを、あとから知りました。 小5の姉と、小3の兄と、入学前の私は、全身ドロまみれの姿ではありましたが、命は助かったのです。 おわり ![]() 〈後日談〉 疎開先の安八郡の母の実家から、この日の岐阜空襲の火がよく見えたそうです。実家の人々から「どうしてこんな時に、子供たちだけで帰したの?」と母は責められ、生きた心地もしなく、おにぎりをこしらえて朝早く末の妹を背にして岐阜へ向かって歩いて来たのです。 そんな母と私達が出会えたのは、空襲のあくる日うす暗くなった夕方でした 怖かったことも、疲れたことも忘れ、三人は母の胸にとびこんでいったことを思い出します。 しかし、広い広い田んぼがつづく中、自分たちが今どこに居るかも分からないなかで、どうして母親と会うことが出来たか、私にはいまだに分からないのです。 きっと神様がつれてきてくれたとしか思えないのです。 さいわいに父親も無事で再会することが出来ました。 家は焼けてしまいましたが、みんなが無事であったことを喜びあいました。 ・・・・・そのときにはまだ誰も知らなかったのですが・・・・・ 昭和20年7月8日岐阜が空襲で全滅したとき、その70日前の4月末には、私たちの一番上の兄が沖縄の南の海で、陸軍の特攻隊(万朶隊バンダタイ)隊員として出兵し亡くなっていたのです。このことはずっと後で戦死公報として役場からの連絡で知らされました。 戦争でのつらさ、悲しさ、ひもじさは、それからの私たち家族にとって、ながく重く覆いかぶさりました。 気がつけば、父も母も亡く、あの日一緒に逃げた姉も兄も今はなく、弟や妹はあの頃4歳と1歳で戦争後の話は出来ても、岐阜空襲を話せるのは自分だけになってしまった今、孫の世代のためにも「負ける戦争」は二度としないためにも、婆さんの体験を一筆残しておきたくて書いてみました。 こうしていま、何の不自由もなく、長生きしていられることが勿体無く、不思議な気がします。 戦争のためにもっともっとつらい目にあわれた方達。 戦地で亡くなった方、空襲で亡くなった方、家族を失い苦しい生活をされた方、沢山の苦労をされた方たちに対し、私だけが今幸せに暮していられることが申し訳なく、感謝の気持ちですごしております。 |